
吉田高尾
9/199/20
岩手県生まれ。システムエンジニアをしながら、映像作ったり、台本書いたりしてます。
仕事以外にも趣味でプログラミングをすることはあるので、プログラマーと名乗ってもいいかもと思いつつ、なるべく働きたくはないです。
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届いた感想
すごかったです! 一歳になったばかりのお子さんとの共演、という形態の微笑ましさと、吉田さんの朗らかな語り口もあって、最初、室内にはリラックスした空気が漂うが、アイスブレイクかのように思われたトークからにわかに「それで、この子には《てんのう》という名をつけたんです」と本題に突入した瞬間、場がいっきにただならぬ雰囲気に転じて、思わず息をのんだ。ただならぬといえばそもそも、吉田さんたちの後ろに投影されつづけている、秋田の花火大会の夜に撮ったという映像もただならぬ鋭利さを最初から帯びていたし、なにより床のカーペットに描かれた家系図。そこには吉田さんの《ともだち》が天皇家の遠い血筋であることが示されていて、そうなると、朗らかに観客の笑いを誘っていた吉田さんの思い出話も、最初から本題も本題だったのだと気づく。そのような場の空気の転換によって、吉田さんや《てんのう》だけでなく、観客のつもりで話を聞いていた僕たちまでもが、天皇にはなれないのだということがとうとつに自覚され、いっぽうで、映像に登場する安倍家、麻生家、あるいは遠く遡って平家、そして吉田さんの《ともだち》は、もしかしてもしかすると天皇になりえる身体をもっているのだと、昨今の皇室典範を巡る議論のことも思い出しながら考える。天皇というものについて、なれる/なれないという軸で、かつ身体をきっかけにして自覚させられることがあろうとは思わなかったので、びっくりした。それと、お子さんがずっとおとなしくて、やはり微笑ましかった。
この子を天皇と名づけました、というところでゾクッとしました。枕から本編にシームレスに移る演出は決してめずらしいものではないのかもしれませんが、その境のあいまいさ、そしてその移行を明瞭に知らせる台詞のインパクトとして、これほどのものは味わったことがない気がします。なにも知らない(というか知るとか知らないとかの概念すらまだあやふやな)かわいいかわいい子どもがそこにいて、その子どももこの演劇に、さらにはこの社会に、生まれたその瞬間から、いや実はそれ以前に連綿と続いて何百、何千年と遡れる人間のはじまりから巻きこまれているのかもしれないということが、たったその一瞬に凝縮されて感じられるようなすさまじさを感じました。その歴史のなかで、ひとはなにかしらの役を背負わされる、その役を本人もまわりもそのひとの本質と思いこむ、という「装い」を絶えず繰りかえしてきたことが、それを再現する演劇の形式において、それがもっとも歪なかたちで浮かびあがる天皇という主題のもとに表現されているように感じました。安徳天皇に言及するくだりでは、目の前のこのひとがこの子どもの親である、という現実の側の意識がどうしても強く入りこんできて、日本史の一部としてしか認識してこなかったその史実を、胸の痛む思いで考えざるを得ませんでした。「装い」は政治の馬鹿馬鹿しさの根本にもありながら、大衆は否応なしにそれに巻きこまれるけれども、その馬鹿馬鹿しさに馬鹿馬鹿しさで切実に応答することができるのだ、ということを安保のくだりでは思いました。短い時間にこれだけのことが(無理やり過剰に詰めこまれた印象もないままに)詰めこまれていて、ものすごく濃密な時間でした。そしてお子さんの、抱っこから床におろされてもまたお父さんのもとに戻ろうとする姿にときめきました……はじめて赤ちゃんに手を振りました……ほんとうにかわいかった……。上演ありがとうございました。
子供の頃、なんにでもなれるようでいて、なれなかったり、天皇や政治家の家に生まれると、将来への不自由さがあり、なかなか難しいですね。お子さん、慣れない人達に見られながら、動じなかったのは、すごいですね。親子共演、お疲れ様でした。